○苦難は忍耐を 忍耐は練達を 練達は希望を生む
○児童の活躍
(校長発:平成25年10月24日木曜) 小雨
もう週末がやってきて、週明けには水曜日が音楽発表会、月曜はリハーサルです。
こどもたちも先生たちのご指導よろしきを得て、大いに頑張っています。
昨日も書きましたが、ご家庭でも様子をお聞きになって励ましてやっていただきたいと存じます。
さて本日、近しい方のご母堂様の葬送式がキリスト教会にて執り行われ参列してまいりました。
(続きは、↑↓見出しをクリックしてご覧ください)
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キリスト教会における葬送式に参列するのは初めてでしたが、1時間半におよぶ式で賛美歌あり聖書朗読ありという流れは胸を打ちました。 私は神仏習合の仏教徒ですが、他宗の葬送の儀がしめやかに行われるのに参列しても敬虔な気持ちにさせられます・・・当たり前ですね。
ところで、牧師先生によって読みあげられた「ローマの信徒への手紙5章3ー4節の言葉がとても胸を打ちました。ご紹介したいと存じます。
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【聖書の言葉:苦難は忍耐を 忍耐は練達を 練達は希望を生む】
「苦難は忍耐を 忍耐は練達を 練達は希望を生む」・・・いかがでしょうか。
私は信者ではなくても世界最高のベストセラーと言われる聖書を学生時代に購入しておりますが、それをひもとくことは稀です。 今回のそのほんの短い一節に触れて異教徒ではありますが感動致しました。
キリスト教徒の皆様はどなたでもご存じの言葉で、意味にはきっと深いものがあるのでしょうが、異教徒の私にも私なりに感動して受けとめることができます。それで私なりの解説を書くことをお許し願います・・・・・・
苦労や困難に出会うと、人はそこで「忍耐」を覚える。
そして、「忍耐」すなわち我慢をして苦労や困難に立ち向かえば、人はやがて「練達」の域にゆきつくことができる。 「練達」とは、ものごとに熟練し理解が深く達人の域にあるということです。
そのように熟練し達人の境地に達すれば、希望が生まれてくる。
・・・というようなことになりますが、これではやっぱり凡庸(ぼんよう)な理解ですね。
※凡庸な理解であっても、なるほどと思います。 私は人間にとって一番
大事な徳目は「我慢」だと思っております。こどもが言葉をおぼえる2歳
ぐらいから5歳ぐらいまで(つまり小学校に入学するまでに)身につけさせ
なければならないことは「我慢する心」だと思っております。・・・五島慶太
先生も嘉納治五郎先生におそわった「なあに」の精神を座右の銘にして
おられましたが、これも「忍耐」、我慢に通じます。
そういうわけで、「苦難は忍耐を」 「忍耐は練達を」という言葉のキーワー
ドとして「忍耐」が出てきているのが、とても私の心を打つわけです。
つづけて、「練達は希望を」とありますので、「練達」もキーワードになって
います。ものごとというものは、我慢をして熟練すれば・・達人の域に到達
するように努力すれば・・希望が生まれてくるよというわけですので、努力
や練習、稽古を推奨しているように思われます。
この個所は、小泉信三先生の「練習は不可能を可能にする」に通じます。
練習や稽古、努力が希望を生むというわけです。
ところで、ここまで書いてきて、この聖書で使われている「練達」について調べてみましたら、これは使徒パウロの言葉で、「練達」を「確証」と訳す日本版聖書もあるそうです。
「証明、証拠」というのが原義だそうで(もとはギリシャ語)、キリスト教徒であることの「確かな証明」の域に達する、ゆるぎない信仰を手に入れることができる、あるいは、神にゆるぎない信仰を誓うことができる・・・というようなことのようです(解釈文責:校長)。 キリスト教ですので信仰がいちばん大事なことからすれば、よく理解できますね。 ゆるぎない信仰の境地に入れば希望が生まれてくるというわけです。
そうはいっても私のような異教徒が凡庸な理解で、「練達」という日本語そのままに受け止めたとしても、この「苦難は忍耐を 忍耐は練達を 練達は希望を生む」という言葉は実に胸にせまってくるものがあります。
私にとって新しい言葉を知ることのできた今日という日に感謝したいと思います。
【児童の活躍】
先日(10月18日の記事で、日本書道芸術協会の書道展で銀賞に輝いた3年生をご紹介しましたが、実は弟君も入賞していたのだそうです。 先日報告に来てくれました。
お姉ちゃんが銀賞なので弟君はちょっと譲って銅賞。しかし立派なものです。姉妹で入賞、あらためてお祝いを申します。
お姉ちゃんの記事を未見の方は、次にリンクをはりましたのでご覧ください。
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↓ 銅賞をとった1年生のK君。
以上