東京都市大学付属中学校・高等学校等々力中学校・高等学校塩尻高等学校|付属小学校|二子幼稚園五島育英会

○「いだてん」に関する続編
 【五島慶太伝より】金栗四三、嘉納治五郎、五島慶太のこと
○競書会はじまる;本日は6年生競書会【後日詳報】

(校長発:平成31年1月9日水曜) 晴れ


 きょうも大変つめたい一日でした。皆様ともどうぞ体調管理に気をつけてお風邪等めされませぬようお祈り申し上げます。私事で恐縮ですが、私は昨年師走をむかえたあたりから、腰のちょっと上の背中がいたむようになり何か病気によるものかなと気にかけておりましたが、冬休みにはいって治ってきましたので、ちょっとホッとしておるところです。

 つめたいなかで恒例の競書会がはじまりました。1年生2年生は硬筆競書会ですが、3年生以上は半切(条幅)に大筆をつかって大きく書く競書会です。きょうの6年生を皮切りに、明日が3年生と4年生、明後日が5年生とつづいていきます。

 6年生の本日をふくめて後日詳報とさせていただきますが、6年生の選んだ言葉はやっぱりさすがで、むずかしいものが並んでいました。たとえば「意気自若」(いきじじゃく)。私もはじめて目にすることばです。それを書いていたO君に意味を聞いたら、よくはわからないとのこと。

 それで私も「意気みずから若し・・・かな?若々しい心のことかな?」とか適当に言っていたのですが、しばらく考えつづけていると、「自若」は「泰然自若(たいぜんじじゃく)」の自若であることに気がつきました。それでO君のところにもどって「心がいつも落ち着いていることだと思うよ」と話したら、O君、大きくうなづいていました。・・・ひょっとするとわかっていたのかな。

 あとで辞書をひいたら「どんな時も落ち着いていて心がくじけないこと」とありました。

 また「有志竟成」というのを書いた女子もいて、「気持ちがしっかりしていれば、どんなこともやることができる」という意味だと説明してくれました。Iさんです。

 きょうの続きは、昨日の「いだてん」記事の続編です。五島慶太伝から抜粋してご覧にいれます。

(続きは、↑↓見出しをクリックしてご覧ください)

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【以下、「五島慶太伝」81頁から84頁まで引用】

「なあに」の精神―慶太と嘉納治五郎

 慶太が東京高等師範学校で出会った一番重要な先生は、校長の嘉納治五郎であった。嘉納治五郎という人を知らないひとはいないと思うが、柔術を「柔道」へ発展させ、講道館をつくった人である。

そしてIOC(国際オリンピック委員会)委員にアジア人で初めてなった人であり、昭和十五年(1940)の東京オリンピックを招致した人だ(しかしこの東京オリンピックは戦争のため中止になった)。

この嘉納治五郎が東京高等師範学校で、「修身(倫理学)」の授業を直接担当していた。東京高師は文京区大塚に移転するまで湯島にあった。それで慶太は学校の隣にある「湯島聖堂の講堂」で嘉納治五郎校長の講義を聞いた。

 「人間には『なあに』という精神がいちばん必要だ。どんなことにぶつかっても、『なあに、このくらいのこと』というように始終考えろ。すべてものごとを大きく考えたならば必ずおじけ(臆病)を生じて震えてしまって成功しない。どんなに大変な物事でも小さく考えて『なあに』と思う精神だけ養え。」
 ということを嘉納治五郎は毎回きまって教えた。

 慶太は、はじめのうちこそ「何べんも同じことを力んで教える校長だ。」と思っていたが、だんだんだんだん、それが心に沁みてくるようになった。

 講道館柔道の創始者にして、世界に羽ばたいた人の言葉だから、心に沁みるのは当たり前なのだが、校長自ら柔道衣の姿のまま、太く隆々たる腕っ節を振り上げて話す熱血授業だからこそであった。

 慶太は古希をむかえるころ、高等師範時代を思い出して、「英語とか歴史とかいろいろ教わったが、そんなことは今ではどこに残っているか分からない。はっきり頭に残っているのは嘉納先生の『なあに』だけだ。」と語っている。

二十kmマラソン

 東京高師の伝統行事に春秋の二回実施されるマラソンがあった。

 春は学校から埼玉県大宮の氷川神社まで二十km、秋は青山師範から多摩川のほとりの桜楓園(現在の世田谷区上野毛自然公園...五島美術館の近く)まで二十kmのマラソンである。病人以外、不参加は許されなかった。

 片道二十kmを走り通すとなると、上田中学校に通っていたころ毎日往復二十四kmを歩き通した慶太でさえ、これはまことに大変なことだった。昔から日本では「文武両道」といって「学問と心身鍛錬の両立」が大事であるといわれてきたが、教育者を育てる東京高師にそれが貫かれていたのである。このようなマラソン持久走によっても嘉納校長の「なあに」の精神は慶太のなかにつちかわれた。

 ※ 慶太が卒業した後、この東京高師から金栗四三(かなくりしそう)という学生が明治四十五年(1912)のストックホルムオリンピックに、マラソンランナーとして出場している。

  金栗四三はオリンピック予選会で当時のマラソン世界最高記録を出した。それには東京高師のマラソンの効果もあったことは疑いない。この金栗四三について感動的なエピソードがあるので、ぜひ紹介しておきたい。

 実は金栗四三は予選で世界記録を出しながらオリンピック本大会では四十度という気温のなか走っている途中、熱中症で気を失ってしまった。近くの農家で介抱してもらったが意識が回復したのは翌朝であった。

 そのことが誰にも気づかれなかったため「競技中に失踪し行方不明」と処理された。棄権の意思すら表明できなかったから仕方ないのだが、なんとそれから五十五年後、スウェーデンオリンピック委員会が粋な計らいをした。

 ストックホルムオリンピック五十五周年行事に金栗四三を招待し、競技場を走らせゴールさせることにしたのだ。金栗はありがたく招待をうけ、ゴールテープを切った。このときのアナウンサーの放送がまことに素晴らしい。

 「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、五十四年八ヶ月六日五時間三十二分二十秒三.以上で第五回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終えます。」

 金栗はそれにこたえて

「長い道のりでした。この間に孫が五人できました。」

 とユーモラスに答えたという。(時事通信社「近代オリンピックとその時代」より)。

  金栗四三の世界記録は、慶太が三十歳、萬千代夫人と結婚した年のことだ。慶太がどう思ったか記録が残されていないのが残念だが、嘉納治五郎を共に恩師に頂く後輩の世界記録とオリンピック出場を、自分の学生時代の二十kmマラソンと重ね合わせたことだろう。さぞや感無量だったに違いない。

       以上「五島慶太伝」より

 本日の記事は以上です。

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