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○大川小学校跡地に献花、視察してきました

(校長発:平成28年12月5日月曜) 晴れ


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【大川小学校跡地に献花、視察してきました】

 日本私立小学校連合会の「全国校長研修会」で大川小学校跡地に行ってまいりました。
 犠牲者のご冥福をお祈りし、御霊(みたま)に献花してまいりました。

 いままで大川小学校に関する報道に接してきましたが、報道に接するだけのときと、実際に現場をおとずれ、お話を伺うのとでは、認識がまったく違ってきました。

 バスガイドさんが「いろいろな報道がありますが、私がそれに加えることは致しません。皆さんが実際に現地に降りて、お話をうかがって感じていただくほかないと思います。その感じ方も一人ひとりで違うと思いますが、確かなことは、犠牲者はかえってこないこと、将来、このような犠牲者を出さないために何が必要なのかを一人ひとり考えることだと思います。」と言っていましたが、その通りだと思いました。

 大川小学校事故検証報告書が二年半前にまとめられています。それを読んでも軽々なことは言ってはならないように思うのですが、ただ一つ言えることは(確かなことは)、大川小学校と校区の皆さんのほとんどが「津波はやってこない」と思っていたということです。

 だから大川小学校では津波避難訓練を実施していなかったといいます。卒業生の親御さんが自分の子が通っていたときに一回あったような気がするが、それでも10年ほど前になります」とおっしゃっていました。

 「普段からの備えがなければ、いざというときに動くことはできない」ということだと思います。今朝の全校朝会では、そういう話をいたしました。

 かといって誤解なさらないで欲しいのは、私がそう言うからと言って「大川小学校の先生たち」を責めているのではないのです。ただただ、備えがなかったことが悲しいことであり、74名の児童と10名の先生方の命がなくなった現実、取り返しのつかない現実であったというだけです。

 南三陸町にも行ってきましたが、語り部の方が言っていたのは、「昭和35年のチリ地震大津波のときに津波被害に遭わなかった地区の方々が、避難し遅れた」ということでした。「備え」がなかったわけです。

 1,000年に一度の大地震、大津波だったわけですが、大川小学校も昭和35年の大津波でもそのまえの明治の津波でも昭和の津波でも津波に襲われていなかったのです。 それで津波避難訓練の必要すら感じていなかったという現実・・・これがただただ悲しいことに思えてならないのです。

 大川小学校の犠牲者(こどもたちと先生たちだけでなく、校区の八割にのぼる犠牲者も含めて)の方たちの尊い命を無駄にしない道は、私ども残された者が、あらゆる想定をしてシミュレーションし、いまの児童を守りきる方策をたてるということだと思います。

 そして大川小学校のことを、千年後の人々にも確実に伝えきることだと思います。

 舌足らずのままペンをおきますが、大川小学校跡地を動画に撮影してきましたのでご覧ください。

 静止画を何枚並べても、現地を訪れていない人には状況が伝わらないと思って動画で一周撮影いたしました。

  ただ、撮ったあとに動画で見ると、「裏山に逃げれば良かったのに・・・」と受け取られるかなと思うのですが、裏山の状況は地震津波があったころとその後(今)とでは大きく違っているということでした。

 また「津波がきた」という切迫した状況ではじめて避難し始めて向かった先の「橋のたもと」のところまで(堤防よりちょっと高いぐらいの高さ)は今は見通せますが、当時は住宅が密集していて、見通せない。津波がどのようにやってくるのか見えない。そういう状況だったそうです。

 いま大川小学校校区の人々は、この津波事故をめぐってさまざまな立場に分かれていらっしゃるのですが、思いは「二度とこどもたちや校区の人々が犠牲にならないように」ということです。慰霊塔には犠牲になった方々全員の名前が刻まれていました。

 では動画をご覧ください。

          ↓ 1分少々


    本日の記事は以上です。

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