○やっと晴れた!
○【朝の会・朝学習】2年生以上の上級生らしい立派さ
○板橋前教頭先生の教頭離任の辞
(校長発:平成27年4月15日水曜) 晴れ
ご来校いただきました。旧会計のお母様もお手伝いくださったようです。
また、厚生部のお母様がたが今日も給食チェックに来てくださいました。
教頭退職にあたって
前教頭 板橋昭夫
「月日は百代の過客にして 行かふ年も又旅人也」
38年間お世話になった御校を去る日がとうとう来ました。大学闘争激しいころ、やむなく大学を二つ通過して御校に勤め始めたのが昭和52年私が27歳の時でした。
時の校長(重永校長から数えて6代前の校長)は、面接後に校内に私を案内しがてら、
「この学校は、学級定員が満たないので、もの足りなく思うかもしれませんが、いらしていただいたことに感謝します。」
と、申し訳なさそうに校庭の桐の木を眺めていたのが忘れられません。
私が走馬灯のように思い出すのは、担任として勤めていた20数年間の子どもたちとのやりとりです。
多くの場面が哀愁として漂う中で、44歳の教え子(私の赴任6年目の卒業生)が私の退職を聞き知って、
「卒業時の色紙に板橋先生が書いてくださった『人から愛されることを望むより、人を愛することを志す者になれ』が、私のその後の人生でどんなに身に染みたか」
と、エールを送ってくれたF君。
私は、当時、きっと子供から好かれる教師になろうと慢心して、奇をてらった授業をしていたに違いありません。
上の色紙に書いた言葉の「人」を「子ども」に置き換えてみると分かるのですが、赴任6年目にして「子どものためになる」教えをしようと、私自身を変えようとしていたのでしょう。
子どもたちが鏡となり私という教師が成り立ち、先生たちとの相乗的な触れ合いの中で、今の私があります。
今思えば、この40年余りの歳月は、「光陰矢の如し」といった感があります。
今でも、初任の時に訪れた八ヶ岳林間学校の光景が
「先生、先に行かないで」
と呼び止める女の子の声と一緒に、まざまざと記憶に蘇ってきます。
私事で、他の教員の皆さんを差し置いてそそくさと帰らなければならなかったときのお詫びと、私を教頭として育てて下さった重永校長先生はじめ教員の皆様への感謝から、また温かい目でお付き合いくださった保護者の皆様への感謝から、これからも講師として本校に残り、子どもたちに学力を付けるというお返しをして参るつもりでおります。
老兵でありますが頑張っていきます。今後ともよろしくお願い申し上げます。
以上