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「ならぬことはならぬ」・・・幼少教育の重要性
   東初協の校長先生たちと話して感じたこと

(校長発:平成25年5月14日火曜) 晴れ

 私は、きょうは朝から東初協(東京私立小学校協会)の総会と役員会があり、アルカディア市ヶ谷(私学会館)で、午後までずっと会議だったため、小学校も幼稚園も不在に致しました。

 4時に学校にもどってきたとき、課題を終えて帰ろうとする5年生に会いました。

 その5年生の一人が、「いま幼稚園から戻られたのですか?」と尋ねてくれました。「うーうん、違うよ。市ヶ谷で会議があってその帰りです。」と答えたのですが、気づかってくれる都市大っ子・・・嬉しかったですね。その一言で疲れが吹っ飛びました。ありがとう。

 ところで、東初協総会では、今年は「校長交替」の小学校が多く、新校長先生の挨拶も花が咲いたように多彩でした。

(続きは、↑↓見出しをクリックしてご覧ください)

(つづき)

 その新校長のうち半分ぐらいの校長先生が中高教員(教頭)からの転身で小学校校長になっておられました。 それで感心するのは「小学校」という教育の場に初めて赴任して、皆さんとも「小学校」というところが中高校とは性質がまったく違う教育の場である、ここに「全人的な教育の場があった」と実感、ないしは感動されていたことです。

 振り返れば、三年前の私も同じ感動をもったわけですが、きょうはあらためてそのことを噛みしめた日となりました。 自分も人の親として小学生時代のこどもを育てたのに、その実感とはまた別の感動が「小学校勤務」にはあるのです。

 言わずもがなのことですが、小学校というのは、「人間」の基礎が作られるところです。 授業で言えば、中学校以上は程度の差はあれ、その学習内容に「学問」的な内容が多く入ってきます。教科の呼び方も「算数→数学」の例に端的にあらわれているように学問的です。自ら「問い」を発し自ら問題を解く姿勢が自分の学力向上に影響をもつようになります。 小学校でも特に高学年では、そういうところはあるのですが、中高以上に比べたら物の数に入りません。

 小学校の基本は「模倣」と「習得」、「習熟」です。ですからドリル学習(復習と反復学習)がきわめて大事です。予習も「学校で復習する」ためという考えに立てば「復習」です。(もっとも都市大っ子レベルの児童にとっては中学校レベルの「自ら問いを立てる」ぐらいのことは出来るようになりますが、基本は「習得・習熟」です。)

 この「模倣」と「復習」・・ドリル学習(反復学習)の観点は、教科の勉強だけでなく、こどもの躾(しつけ)において、もっと重要になります。

 20年ぐらい前でしょうか、ある高校生が「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問い掛けをしたというニュースが流れたことがあります。今のお父様やお母様が高校生や大学生時代だったかもしれません。そのときは、それに対して真面目に「論理的な回答」を示さなければならないと考えた高校教員が多くいました。・・実は私もその一人だったのですが。

 これに関連して、小浜逸郎さんという方が優れた著作(※)を出されてはいますが、 しかし考えてみれば、これは「論理的回答」によって納得させる類の問題ではありません(小浜さんは論理的回答に迫ろうというスタンスで本をお書きになっていません)。

   ※小浜逸郎「なぜ人を殺してはいけないのか 新しい倫理学のために」(洋泉社新書)

 仮に論理的に否定する回答が見つからなかったら(相手が論理的に納得しなかったら)、「人を殺して良いのか?」ということになりかねません。しかし、そんなことはありません・・いやあってはなりません。小説虚構の中では、ないしは、「思考実験」や「論理学習」、「大人のディベートテーマ」の類では許されるとしても(それでも、あまり好ましいことではありません)、現実社会では絶対にあってはなりません。

 これは 「ならぬことはならぬ」と答えるしかないのです。 NHK大河ドラマ「八重の桜」の舞台である会津藩では子弟への訓戒の一つに「ならぬことはならぬ」ということがありますが、まさにそれであります。

 こどものときに「人は殺してはならない」・・「生きとし生けるものすべてをいつくしみなさい」・・「だから、どんな小動物、虫であろうとも無用な殺生はしてはならない」というようなことを含めて、幼児時代から10歳ぐらいまでの間に、人としての基礎を骨身に染みるように躾ければ、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問い掛けが出る余地はないのです。

 ですから20年ぐらい前に、「人はなぜ殺してはいけないのか」という問い掛けに接した高校教員は私をふくめて、「こういう問をするような高校生が育った子育て環境の問題点は何か?」と自問自答し、そういう問いを発する高校生を生み出した教育環境の在り方を振り返り、今後、そういう問いをする高校生が二度と出ないような教育、子育てはどうあるべきかを考えることが重要だったのです。

 昔も今も、「私立」小学校の卒業生の中からは、そういう問い掛けを発する中高校生は出てこないように思います。それは、本校を含めて私立小学校の先生方は、そんな「論理遊び」(あえて論理遊びといいます・・屁理屈と言った方が良いかもしれません)は相手にせず、先人の教え、建学の精神と学校の教育方針にしたがって、「日本と世界の宝」を育てることに熱中してこられたからだと思います。

 これからも私どもは、「人を殺してはならない」「人を傷つけてはならない」「言葉の暴力も使ってはならない」「物を盗んではならない」「人をいじめてはならない」「卑怯なことはしてはならない」などなど「ならぬことはならぬ」ということを教え続ける小学校教師であらねばならないと思っております。

 縷々のべてきましたように、小学生時代は、 何よりも人間としての基本的な善悪を習得する場、人間としての基本的な躾(しつけ)を「完璧に」身につける場です。つまり、家庭と連携して文字どおり「人間をつくる」ことに深くかかわっている場所が小学校です。だから、中高教員から小学校に異動してきた校長先生方は異口同音に「小学校」という教育現場に感動するのだと思います。

   ※幼稚園は「感動」がもっとすごいのですが、それはまた別の機会に・・・。

 自分の三年前を思い出した今日の東初協総会だったことに寄せて、長い文章を書いてしまいましたが、お読みくださいまして、ありがとうございました。

                    以上

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