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都市大の五島慶太翁/ロンドンオリンピックにおける審判

(校長発:平成24年7月31日火曜) 天気晴れ

     ・夏休み11日目

 昨日は先生ブログをお休みいただきました。私は、朝から五島育英会法人本部に詰めました。創立者五島慶太先生生誕130年記念「五島慶太伝と教育事業」に関する打ち合わせがあったためです。

 本年度中に児童生徒向けの「五島慶太伝」を発行の予定で準備をすすめていますが、あたらしい事柄の発掘もすすんでおり、興味深く執筆をすすめております。

 また、法人本部の尽力で、五島慶太先生が、いかに東横学園と武蔵工業大学の発展に尽くされたか、それがなかったら今日の東京都市大学グループの存在も考えられなかったことについて、いろいろな事績の発掘がなされています。創立者ですので当然といえば当然なのですが、その事績が大げさでなく、「慶應の福沢諭吉翁」、「早稲田の大隈重信侯」に匹敵するほどのことだといえるほどのものなのです。

 打ち合わせに参加した一同、没後五十年、生誕130年を迎えた今日まで、五島慶太翁の教育事績をうたいあげてこなかったことが悔まれる思いにかられました。

 そういうことから、今後、五島翁の名前が教育界において福沢翁や大隈侯のように二十年後、五十年後、百年後に伝わるようにしたいという気持ちをあらためて確認した一日でした。

(続きは、↑↓見出しをクリックしてご覧ください)

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話題は変わりますが、ロンドンオリンピックが開幕して四日目をむかえていますが、日本選手団もサッカー男女の好スタートこそあったものの、その後は悲喜こもごもですね。

負けた選手を決して責めない、その悔しさに心から寄りそう、勝った選手の喜びを共有する・・・そういうことができる日本という国の成熟を感じることができる序盤のたたかいです。

とくに私が感心するのは、日本のお家芸柔道において期待にこたえられず敗れた柔道家の皆さんが、敗戦インタビューに応じるのに涙をこらえながら話すその態度です。私の場では涙をながして良いのですが、公の場では涙をこらえるというのは並大抵の精神では出来ないことです。

「さむらい」「大和なでしこ」の姿をみました。

それにしても、柔道の審判方法の「狼狽(ろうばい)」ぶりには目をおおうものがあります。体操団体戦のメダル判定をくつがえした同審判団の初期判定の体たらくにも首をかしげざるをえませんでした。

柔道審判に「ジュリー」という存在があるということを初めて知りました。試合場外において試合のビデオを確認しながら正規審判の判定に微妙なところがあるとき助言をする役割だそうですね。

2,000年(平成12年)の「世紀の大誤審」(篠原信一の一本勝ちを相手の一本勝ちとしてしまった大誤審)をきっかけに導入されたもののようですが、いままでは助言だけで正規審判の判定をくつがえすようなことはなかったといいます。それが今回ロンドン大会ではポイント判定だけでなく最終勝敗判定にも口をはさむようになっているといいます。

「審判の権威」というものの揺らぎをかんじさせる一大事のように思います。

スポーツにおいて誤審はあってはならないものですが、だからといって、誤審なきよう「用意周到」をこらしたつもりが、逆に「審判の権威」を台無しにするものではあってはなりません。

審判と選手はおたがいに尊重しあうからこそ、おたがいに己をきびしく鍛えようと日々努力するものだと思います。審判の権威にゆらぎがあるところでは、それができません。そういうことだと審判も判定に厳しい責任感をおぼえず、ゆるい判定をくだしかねないことになります。それが随所にあらわれているように思います。

日本選手に有利に判定がくつがえると、瞬間、嬉しかったりもします。とりわけ明らかに誤審だろうと思ってみているときにそうなると「やっぱりそうだろう」と思って我が得意になったりもしますが、それはすでに審判というものの軽さを認めているわけで本来的ではないわけです。

以上、ロンドン五輪における審判について述べましたが、この厳しさは、我々の日常にもあてはまると思っています。自戒、自戒・・・。

今から、あるシンポジウムに出かけますので、きょうは午前のうちにアップします。

                  (以上)

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