文字サイズの変更

蝙蝠(こうもり)がやってきた/高木兼寛/岩代浩一先生について/

(校長発:平成24年5月9日水曜) 天気 曇り 夕方雷雨   .

3年前の都市大学グループ発足と合わせて学園歌が制定されたことはご存じのことと思います。校歌「この学舎に」とならべて本校ホームページにも掲載しておりますが、歌の題名を「夢に翼を」といいます。

大学までも含む学園歌ですので小学生には少々難しいというか低学年には大変難しい歌詞となっておりますので、日常うたわせることはしていませんが、始終業式等の式典では曲を流し親しませるようにしています。そのこともあって、ほとんどの児童が曲にふれるとすぐに「学園歌」だと理解してくれるようになっていますので、嬉しく思っております。

さて、その作詞作曲をしてくださった岩代浩一先生がお亡くなりになりました(享年81)。新聞等でも報道されましたのでご存じの方もいらっしゃると思いますが、ご逝去の日は4月22日です。すでに近親者におかれて密葬が執り行われております。ただ大変ご高名でいらっしゃいますので、お別れ会が開かれるそうです。新聞等で知らされるでしょうが、上述のように都市大グループの恩人でいらっしゃいますので、本「先生ブログ」を通してお知らせ申し上げる次第です。 

(続きは、↑↓見出しをクリックしてご覧ください)

.

(続き)

 岩代浩一先生は故森繁久弥さんと大変仲が良くていらっしゃいました。歌番組等で「作者不詳 日本民謡」というのが流されることがありますが、そのことについての秘話をお聞きしたことがあります。私が言うまでもなく、いや言うのもはばかられますが、森繁さんも岩代先生も歌というものに大変造詣の深い方でした。

 また岩代先生は還暦を迎えられた時に、「還暦とは"生まれかわり"を意味するのだから、新しい何かを始めよう」とお考えになって、剣道を一から修行されました。若いころボクシングをされていた方ですので、身体は頑健なのですが、それでも60歳になって剣道を志すなど常人ではありえないことです。

 ところが岩代先生はみるみる腕を上げられて70を超えられてから6段の段位をとるまでになりました(名誉段位ではなく実力段位です)。  「日本一遅く剣道家となり、日本一弱い6段」と謙遜なさっていましたが、その剣道の門をたたいたところが「東急剣道部」だったのです。

 そして、その東急剣道部主将が私どもの法人本部の部長さんだったのです。そういうご縁で岩代先生は私どものグループと深くおつきあいいただいたというわけです。

 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【都市大付属小に蝙蝠(こうもり)がやってきた】

明日、先生方から児童に知らされる予定ですが、一足先にここでご紹介しておこうと思います。

2012-0509koumori.jpg

理科の夏目先生が本校児童に蝙蝠を見せてあげたいということで、「蝙蝠(こうもり)」を捕まえて理科室に展示してくださいました。生きた蝙蝠です。夏目先生は理科教材研究のために山をお持ちで、そこにいる蝙蝠をつかまえてくださったのです。ただし11日までの期間限定展示ですので、早めに見てください。

  フラッシュ動画にしましたのでご覧ください。でも本物の方が迫力あるので
  児童の皆さんはぜひ理科室廊下からみてください。

               ↓

【静か大賞(水曜恒例)】

 全教室<静か大賞> 

1年生は桜組が5年生の係から読み聞かせをしてもらっており、桐組は自分たちで静かに読書していました。4年桜組は運動会の小道具と保健カードを作るよう先生に言われているということで少々声が飛び交っておりましたが真剣でした。5年生は両組とも朝日新聞の天声人語に取り組んでいました。大学入試に出題されるレベルの文章に5年生で取り組むというのは素晴らしい。6年桐組は声が聞こえていましたので、「あれ?」と声をかけると瞬時、たちどころに静かになる点が最上級生らしく大賞としました。

【卒業生来訪と高木兼寛】

 7日(月)、いま大学1年生になっている本校卒業生Hさんが来校してくれました。三代にわたって本校卒業だとお聞きしましたので、創立以来の本校の「生き証人」ともいうべき御家系でいらっしゃいますね。

 今年、本校同窓会設立の準備が進められていますが、ぜひ、設立総会には三代そろってご出席いただければと思います。

 進んだ大学名をお聞きしましたら「慈恵会医科大学」ということでしたので、私は俄然興味がわいてきました。というのも慈恵会医科大学の創立者は見出しに書きました高木兼寛という方で私の郷里宮崎県出身だからです。 そのお話をしましたら、

 「そうですよね。高木兼寛先生を宮崎県の人は必ず知っていますよね。」

と答えてくれました。

 「高木兼寛先生」と礼儀正しく呼んでくれたことも嬉しかったですが、我が郷里の偉人、高木兼寛をよく知ってくれている様子がうかがえたことも嬉しかったですね。もっとも、今の自分の大学の創立者ですから知っていて当然ではありますが・・・私どもの本校創立者五島慶太先生に対するのと同じことですね。

    •  以下は興味のある方だけお読みください。高木兼寛のことについてご紹介しておきます・・・郷土自慢のようになって恐縮ですが、卒業生Hさんの来訪にあやかってのこととご容赦願います。

       高木兼寛という方は、江戸時代まで不治の病といわれ皇女和宮もそれが死因となった「脚気(かっけ)」の治療法を発見したことで有名な方です。当時ビタミンという概念はなかったのですが、高木兼寛は脚気は麦飯を食べればかからない、麦飯を食べれば治ることを発見し海軍の食事に麦飯を導入した人です。

       文豪森鴎外が軍医であることはご存じでしょうが、この森鴎外は「脚気」の原因をウィルスに求め、高木兼寛の「米飯説」と鋭く対立しましたが、ほどなくして高木兼寛の説が正しいことが証明され、やがて鈴木梅太郎博士によるビタミンの発見へとつながりました。

       この高木兼寛が明治14年に今の銀座に「成医会講習所」というのを開いたのが慈恵会医科大学の発祥です。

                        (以上)

カテゴリ:

コメントする

コメント (スタイル用のHTMLタグを使えます)